『沈黙の、その手前』
「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。」
『論理哲学論考』の最後の一行であり、ウィトゲンシュタインの残した最も有名な言葉でもある。《語り得ぬもの》。建築においても、《語り得ぬもの》がある。
何か言いたくなる衝動に駆られるものの、次に言葉が出てこない建築物。そういった建築物が、私にとってのいい建築物である。例えば、アルヴァロ・シザ、カルロ・スカルパ、ピーター・ズントー、そしてルイス・I・カーン。
《語り得ぬもの》の一つに、感覚があるだろう。感覚――光の濃淡。空間の連鎖。素材。スケール。――上に挙げた幾人かの建築家の作品は、感覚の良し悪しで判断され、感覚の良し悪しでしか語ることの出来ない建築物を作る。
こうした建築物について、何とか語ってみたい。言葉をあてがってみたい。この欲望が、本研究の動機である。
そもそも、この世界の多様さに対して我々が持っている言葉の数――ボキャブラリー――は、あまりにも少ない。持っている、いや、用意されていると言った方が正確か。だからこそ、「沈黙せねばならな」くなる。それでも語ろうとするのが、人間なのだろう。禁止の中でも最も聡明なウィトゲンシュタインのそれを違反しようとする過剰さが、人間の人間たるゆえんではないだろうか。
語り得ぬものについて語ろうとする時。その時に要請されるものこそがレトリックである。
レトリックとは何か。例えば、隠喩法である。例えば、体言止めである。「レトリックとは何か」ということについて、常識的な説明を試みると、以下のようになる。レトリックとは、文章を綺麗に書くための技法となる。レトリックとは、誰かを上手く説得するための方法とも言える。つまるところ、レトリックとは、修辞学と説得術の総称である。
日本におけるレトリック研究の第一人者、佐藤信夫はレトリックについて以下のように言っている。
「古来のすぐれた表現がしばしば常識から逸脱した姿を見せたのは、多くの場合、常識的なことばづかいでは的確に語りえぬことがらを何とか語ってみせようとする苦心の結果であっただろう……と、いま私たちは考えることができる。言語認識論というべき立場から考え直してみれば、常識的なことばづかいによっては容易に造形されえない発見的な認識は、やむをえず常識からやや逸脱した表現を必要とする、とも考えられるのだ。」
佐藤の主張をまとめよう。レトリックは、新しい認識、つまり既存の言語体系では語りにくいものに出くわした時に要請される。レトリックとはつまり、文法規則や言葉の正しい意味を違反してまで何とか語ろうとする姿勢のことである。ウィトゲンシュタインに立ち戻るなら、語り得ぬものについて語ろうとすることこそがレトリックなのだ。
レトリックの歴史は長い。ギリシア時代の哲学者アリストテレスが基礎を形作り、同じくギリシアの哲学者キケロがひとまず体系を完成させた。その後、分類・整理をくり返し体系化され今日の形に至る。レトリックとは何か、という常識的な説明は、ほぼ完成されてしまった、「学問としてのレトリック」について説明しているに過ぎない。しかしレトリックの最も面白いところは、語り得ぬものを何とか語ろうとする姿勢である。
レトリックは「文法規則や言葉の正しい意味を違反してまで」「語り得ぬものを何とか語ろうとする姿勢」だと述べた。この定義を、ローマ時代の建築家・建築理論家であるウィトルウィウスが提唱した「建築の三要素」と絡めて説明したいと思う。ウィトルウィウスが提唱した建築の三要素とは《強》《用》《美》であるということは、ことさら書くまでもないだろう。単純化すると建築において《強》は構造のことであり、《用》は機能にあたる。では《美》とは何に当たるのだろうか。
また、カテゴリーミステイクであることを承知で《強》《用》《美》を言語にあてはめてみようと思う。異論はあるかと思われるが、《強》は文法、《用》は意味にあたるのではないだろうか。そしてここでも、《美》に別の単語をあてがうのに苦労する。
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「文法規則や言葉の正しい意味を違反してまで」「語り得ぬものを何とか語ろうとする姿勢」が言語のレトリックだとすると、レトリックとはウィトルウィウスの言う《強》《用》をひとまず括弧に入れる姿勢だと言うこともできるだろう。常識的な説明をすれば、レトリックとは「文章を綺麗に書くための技法である」と言った。だが、どうやらこれは事後的な認識であるようだ。レトリックは、そもそも美しさを目指してなどいなかった。美しい文章を書くためのマニュアルではなかった。語り得ぬものを語ろうとする際に、《強》と《用》を括弧に入れて言語表現を行うと、結果として《美》≒美しさが残ったものこそが、レトリックなのであろう。
であるとすれば、建築のレトリックとは、構造と機能を一旦括弧に入れてみる姿勢だということが出来よう。本研究で提唱する建築の修辞学とは、構造と機能が薄れかかった、建築物のとある部分に着目し、語り得ぬ建築物についてなんとか語ろうとする試みである。同時に建築の美しさ( これもまた語り得ぬものだろう) とは何かについて語ろうとする試みでもある。
作業は二つの段階を経ている。日本語における修辞技法の数は303種類ある。建築の修辞学とは、303種類の日本語の修辞技法に対し、303の建築物を選定する試みである。これが第一段階にあたる。もちろん言語と建築は異なる概念であるため、結果として277の修辞技法に対し、248の建築物を当てはめることができた。( いくつかの建築物は、複数の修辞技法を当てはめることができるため、修辞技法の数に対し、建築物の数が少なくなっている。) 当てはめることが出来なかった修辞技法に対しては、言語と建築の違いを浮き彫りにしているということも出来る。
第二段階として、303種類の分類を試みた。大きく《展開》と《伝達》の2つの分類が可能で、さらにそれぞれ4つ、《展開》においては1. 配列2. 反復3. 付加4. 省略、《伝達》においては5. 間接6. 置換7. 多重8.摩擦の下位分類がある。結果計8つのカテゴリーに分けることが出来た。
《展開》のレトリックには、部材を並べ替えたり(1. 配列)、反復したり(2. 反復)、構造・機能上必要のないものを付け加えたり(3. 付加)、部材を省く(4. 省略) ことで、何らかの特殊な効果をあげている建築物が収められている。
同様に《伝達》のレトリックには、建築物を通じて建築家の思考を伝えたり(5. 間接)、何かの概念を部材を用いて比喩として伝えたり(6.置換)、一つの部材に複数の意味を込めたり(7. 多重)、部材の本来的な使われ方とは異なる使い方をする(8. 摩擦) ことで特殊な効果をあげている建築物が収められている。
そのどれもが、構造や機能を限りなく薄めた結果、248 通りの美しさを体現した建築物である。ウィトルウィウスの提唱した建築の三要素のうち、《美》に別の言葉をあてがうことができなかったのも納得がいく。248の建築物には、248の美しさがあるのだから。換言すると、語り得ぬ《美》という抽象概念に、248通りの形を与えることが建築の修辞学の役割である。
《美》とは結局なんであろうか。建築における《美》と、詮索の範囲を限定したとしても、いや、さらに範囲を絞り、今回扱った248の建築物に限ってみても、《美》は多様であると言うことしか出来ない。
昨今、初源的なものにこそ建築の美しさの根源がある、という言説が多く見られる。いや、この風潮は何も最近に限ったことではないだろう。――身体にこそ、プリミティブな素材にこそ、自然にこそ、そういった初源的な場所に建築の根源がある――、このような風潮である。ともかく、私はこの風潮に対し、素直に肯首くことは出来ない。
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初源と根源は異なる。初源が上のドローイングのように、一点に向かって収束していく大きな一つの矢印だとすれば、根源は初源と同じ形状をしているものの、無数の矢印の集積であると考えている。初源は過去に遡れば遡るほど見えやすくなるのに対し、根源はどこを取ってみても見出しにくいものだ。初源が本質であれば、人間の歴史など必要ない。遡る必要もないだろう。だが、現に歴史は必要とされている。ここに矛盾がある。だからこそ根源を見出す苦難の道を我々は選択しなければならない。根源は、複数の矢印の結節点にこそ存在する。美しさとは一つではない。美しさは矢印の数だけ、その結節点の中に紛れ込んでいる。
レトリックは欲望である。レトリックは過剰である。語り得ぬものについて語りたいと思ったときに、レトリックは要請される。語り得ぬものについて、語るという行為がそもそも欲望であり、そもそも過剰である。
我々はウィトゲンシュタインが禁止した、沈黙の世界に到達することは恐らく出来ないのだろう。それでも、沈黙の一歩手前の世界、より静かな世界に向けて我々は進んでいかなければならない。新しさとは、矢印を増やすことであり、結節点を増やすことであり、根源を明らかにすることであり、より静かな世界へ進んでいくことである。建築の修辞学は、その指針の書だ。沈黙すべき世界に、静寂とは正反対の存在である言葉を用いて近づいていくこと。我々に残された道は悲観的にも楽観的にも、こんなものだろう。より、静かな世界へ。静かなレトリックをもって。