『《attempt vol.4》に関する試論』
「何故」という言葉ほど、興奮するものはない。「全くわからない」でも、「既に知っている」でもない。そのちょうど中間地点に、「何故」という言葉は存在する。
添田朱音の『attempt vol.4』は、まさにその、ちょうど中間地点にあった。 あの白い空間の中には、何故という言葉が幾度となく押し寄せてきた。だから私は今こうして文章を書いている。あの白い空間の中で生じたいくつかの「何故」に、ひとまず素直に従って、『attempt vol.4』と名付けられた、あの空間のことについて考えていきたい。
とはいえ、まずは『attempt vol.4』がどのような空間であったか、説明せねばならないだろう。
写真が『attempt vol.4』の全てである。いや、物質的な全て、とでも言おうか。ある部屋の中に、舞台(添田の言葉を借りれば構造体)、建築用語でいうところの基壇があり、その上に建物の間取り図めいた800mmの小壁が立ち上がっている。小壁の一部は切り掛かれて、どうやらこれは『attempt vol.4』の入り口のようだ。そしてこの舞台の上に、白い服を着た「パフォーマー」あるいは「演者」と呼ばれる女性が、時に座り込み、時に小壁を跨いで空間上を行き来している。さらに、作品の鑑賞者がここに加わる。鑑賞者は「訪問者」として、『attempt vol.4』に参加していく。以上が『attempt vol.4』の物質的な全てだ。
『attempt vol.4』は、これが全て、ではない。まず、『attempt vol.4』の中では一切の発声が禁じられる。声による、言葉によるコミュニケーションが禁じられ、パフォーマーと訪問者は、お互いの目線と身体の距離を拠り所にして、コミュニケーションを図らなければ、あるいはそれを断絶しなければならない。また、白い空間の外に、二つの視点がある。一つは『attempt vol.4』で起こる全てのことを記録していくビデオカメラ、これを「傍観者」と呼ぼう。もう一つは添田朱音の視点だ。添田は『attempt vol.4』が置かれた部屋の隅の椅子に座っている。特記すべきは添田の視点である。彼女は『attempt vol.4』で起こることを見ていない。演者と訪問者が自らの作品の上で何が起きているかを見ないのだ。同じ部屋にいるにも関わらず。この無関心な彼女の視点を「制作者」と呼ぶ事にする。
多少長くなってしまったが、以上が『attempt vol.4』の物質的・事象的なことについての全てだ。舞台じみた白い空間が置かれた部屋の中に、「演者」「訪問者」「傍観者」「制作者」の四人が、沈黙を課せられながら同居することが、『attempt vol.4』である。しかしここまで文字を連ねたところで僕はまだ、『attempt vol.4』の全てについて書き切ることが出来ない。何故なのだろう。『attempt vol.4』が何故という言葉を誘発する一番の理由が、ここにある。『attempt vol.4』は、物質でも事象でもなく、その二つに誘発される「心理」を扱う作品であるからだ。
心理に対する興味ほど、我々に何故という言葉を使わせるものもないだろう。相手の心の中はもちろんのこと、自らの心の中で起こっていることすら、僕たちはいま一つ理解できないでいる。心というものが、「既に知っている」と「全くわからない」の間にあるからこそ、何故という言葉が要請される。『attempt vol.4』では、何が既にわかっていて、何がわからなかったのか。
例えば。僕たちは普通、ある特殊な空間に入ると、自己紹介をするだろう。もちろん『attempt vol.4』では、全くの初対面であるのに言葉を禁じられているから、自己紹介など禁じられている。ここで、自己紹介という何気ない行為が突如浮き彫りになる。
例えば。人との距離というものが、人間の心理に及ぼす作用は計り知れない。『attempt vol.4』では、相手との距離が、自らの意思表示になる。興味を持てば近づくだろうし、恐怖を感じれば一定の間隔を保つ。更に言えば、目線というのは、距離以上に心理に影響を与える。目は口程にものを言うという、使い古された慣用句があるが、口を禁じられたあの状況では、目は「ものを言う」なんて生易しいものではない。シュルレアリスム期の映画、『アンダルシアの犬』は冒頭で、眼球を切断し、その結果、あの奇妙な映像劇が進展する。もしくはギリシア悲劇『オイデプス王』では、逆転と認知ののち、同様に眼球の破壊を主人公は選ぶ。言語学者の丸山圭三郎は、バタイユの『眼球譚』の一節、「理性的装置としての眼の破壊」を引用して、アンダルシアの犬を議論の遡上に上げる。すなわち、アンダルシアでは眼球の切断が、理性的な世界から非理性的な世界へと以降する契機であり、オイデプス王では理性の破壊の象徴として、眼球を破壊したという。目とは、理性であり、目線とは、理性的な訴えかけである。言葉を封じられた『attempt vol.4』では、目は最後の理性の装置、なはずである。しかし、『attempt vol.4』の中での目線は、とても気恥ずかしいものであった。ここでも何故という言葉が要請される。
例えば。そもそも言葉によるコミュニケーションとは何であろうか。言葉を封じられたあの空間であるからこそ、言葉とは何か、ということについて考えさせられる。
これらの何故という感覚は、凡庸なインスタレーション作品でもよく見受けられる。凡庸な作品であれば、訪問者に対して何故という問いかけを投げかけ、訪問者は何故を受け取り、その空間内で何故の対象について考えるという一連の行為をさせてその役目を終わるだろう。『attempt vol.4』が非凡なのは、ひとまず考えるという行為が停止してしまうことに由来する。これは、「演者」の存在に全て起因している。凡庸なインスタレーションは、自らの心理に何故を問いかければ済む。が、『attempt vol.4』では相手の心理を読むことも必要だ。空間内に他者がいることで、不意、というか思いがけない行為が連続して起こる。未知の体験に対して、自分の経験を探り当て、なんとなく理解できると思った心理が、相手の不意な行動により、また未知の体験に引き戻されてしまう。
冒頭で何故という言葉は「全くわからない」と「既に知っている」の中間地点にある、と書いた。アメリカの心理学者、エルコノン・ゴールドバークは左脳と右脳の役割を次のように定義している。左脳が慣例をつかさどるのに対して、右脳は新奇性を扱う、と。人は何かを認識した際にまず左脳で過去に同じようなことがあったのか検索する。検索にヒットしなかったものだけが、右脳に渡され新しいという感覚を覚えるのだ。左脳と右脳の間には脳梁と呼ばれる橋がかかっている。また、左脳が言語、右脳が感覚をつかさどっているのであれば、左脳で言語化できなかったものが、右脳で感覚として残っていく。言語化できないものに対して人は恐怖を感じる。だから言語はこれほどまでに発達してきた。『attempt vol.4』で僕が感じた感覚は、まさに言語化できないという恐怖だった。が、叫ぶわけにもいかず、震えるわけにも、立ち去るわけにもいかなかった。なぜなら恐怖を感じている対象は、「演者」であったからだ。
彼女は時に僕に近づき、またさらに目を覗き込み、そして離れていく。そんな奇妙な一部始終を、「傍観者」であるカメラに見つめられ、「制作者」である添田は見ようともしない。3つの温度のまちまちな視点が交錯し、叫べも震えも逃げも出来ない僕は、理性を保つために即興で演技をするしかなかった。即興演技は、慣習を引き出しにする。左脳が僕を、演じさせる。『attempt vol.4』のなかで、僕は右脳で「言語にならないという感覚の恐ろしさ」を感じつつ、同時に左脳で即興演劇めいたことをしていたわけだ。右脳と左脳の間にかかる橋は崩れ落ち、右脳も左脳もそれぞれただただ勝手気ままに活性化され、文字通り右も左もわからぬ自我の崩壊を起こしていた。
そもそも「演者」は何か予定されていた動きをするわけではない。すべて即興で演技をしている。訪問者と同じ状態にあるわけだ。「演者」も「訪問者」も、どちらも即興で演技をしている。つまり『attempt vol.4』は即興演劇であるとも言える。だから添田が「構造体」と呼んだ基壇を僕は「舞台」と呼びたい。即興演劇の面白いところは、演技している人が時折、自我を取り戻し、不意な表情を見せるところだ。目を覗き込む演者は、もしかしたら相手に目をそらす事を期待していたかも知れない。しかし演技をしている僕は、演技の強みを活かして目を覗き返すことが出来る。予測の裏切りが演者に「演技をさせない」ことが出来、演者の素の顔を窺い知る事が出来るのだ。この感覚は、例えば人がたくさんいる教室での振る舞いと、放課後、不意に二人きりになってしまった異性との空間を思い出す。あるいは、三人で食事をしているときに一人が席を立ったときの残された二人の空間でもいい。どちらも、人は何故か沈黙する。この、一種気まずい沈黙が、強制的に持続するのが『attempt vol.4』だ。複数人の空間で強いられていたある種の演技性。この演技性が役に立たない瞬間、沈黙の瞬間、自分が何者かわからなくなる瞬間、僕の心理が、自我が、本当の自分だとささやきかけてくる瞬間。この瞬間もまた『attempt vol.4』と言える。
これが、『attempt vol.4』の中で起こっていた全てのことだ。
全て書き切ったつもりだが、少しだけ補足をしようとおもう。僕は「訪問者」としてだけでなく、「傍観者」、つまりカメラと同じ位置に立って、『attempt vol.4』に参加した。即興演劇を観劇した、とでも言おうか。演者も訪問者も制作者も、何故かすべて滑稽に見えた。この人達は何をやっているのか、と。社会を傍観していると、時折すべてが滑稽に見えてくるときがある。政治家の謝罪会見や、レストランでの見知らぬ恋人達の会話、昔見たコメディ。似たような慣例が、左脳から次々と溢れ出てきた。もちろんすべて沈黙しているわけだから、映像が蘇ってきただけではあるが。添田は『attempt vol.4』を身体コミュニケーションの実験だと言う。なるほど、身体でもコミュニケーションは成り立つ。僕は謝罪会見も恋人達の甘い台詞もコメディアンの発言も、すべて忘れているのだから。
傍観者としてみてはじめて、右脳と左脳の橋が再び架かった。だから今、こうしてなんとか『attempt vol.4』を言語化出来ている。